私は、幼少の数年間と高校以降をアメリカで過ごしてきたが、全て中流階級上層(アッパー・ミドル)以上が中心のコミュニティに住み、同様の学校に通ってきたため、ロー・スクール在学中及びその後の活動以前は、「主流」の白人社会以外のアメリカ社会との接触はほとんどなかった。特に2008年のオバマ大統領選出以降になって、人種差別の時代は終わり、真にpost-racialの社会に突入したと考える白人も少なくない。だが、私は過去数年の間、課外活動やボランティア活動、黒人コミュニティで育ったロー・スクールの学友を通じ、人種差別は、今もアメリカの「主流」社会で生活を送る白人が想像しているよりもはるか広範に存在しているものだという現実を知った。
現在のアメリカに見られる人種差別的行為の大半は、1950年代や1960年代以前に見られたような大っぴらなものではない。例えば、白人専用と指定された公共施設や学校がある訳でもなければ、黒人と白人とが社交的な関係を持つことが特殊な扱いを受けることもない。実際、米・白人人口のほとんどが、人種差別は間違っていると思っていると断言して間違いはないと思う。問題は、黒人と白人との間には、どのような行為や発言を差別的と捉えるか、認識のズレがあることだ。白人の多くは、人種差別とは、黒人に向けて差別用語(racial slur)を言ったり、故意に黒人を白人と違ったように扱ったりすることだと思っている。黒人と白人を同等に扱いながらも、社会的及び歴史的背景により、構造的に黒人を不利な立場に置く行為というものは、差別ではなく、実力のある黒人だったら白人と同じように外部の助けを借りずに前進していくことができるので、修正する必要のないものだ、という考えをもつ白人が少なくない。
だが、アメリカの黒人の多くは、日常生活において名状しがたい人種差別と戦い、白人の多くにとっては信じられないような場面に遭遇しているのである。少なからぬ黒人(特に黒人男性)が、社会的地位やどんなに高級な服を身に着けていたかに関わらず、不審人物としてあらぬ疑いをかけられた経験を持っている。このような疑いは、それを指す表現がある程頻繁に起きるものであり、「~ing while black (黒人でありながら○○をする)」と呼ばれる。例えば、高級ブランド店でベルトを買った後、不審行動をとったわけでもないのに店員によって詐欺の疑いをかけられた若い黒人男性。自分が買ったスポーツカーに息子を乗せ、運転していたところ、黒人が高級車を運転していること自体が不審だという(無意識であるかもしれないが)差別的な考えを持った警察官に車を止めさせられた黒人男性。これらは実際に報道された出来事であるのみではなく、アメリカに暮らす黒人男性なら、いつ経験してもおかしくないと感じるようなものである。
それでも、白人の多くはこのような差別行為及び差別意識を日常のものだと思わず、酷いが例外的にしか起こらないことと認識しているのではないかと思う。この為、このような差別意識が黒人男性の死を招くような事件に発展した際、白人の中には、黒人コミュニティが表わす痛みと怒りを理解しかねず、「何故いつまでたっても人種差別のせいにするのか」、「何故未だに我々白人が黒人を押さえつける悪者扱いされなくてはならないのか」と思うものも少なくない。このような背景があるからこそ、白人と黒人との間で、白人によるオスカー・グラント*、トレイヴォン・マーティン、マイケル・ブラウンといった黒人の青少年の射殺事件に関する意見の違いが出るのである。この世論の差の根源にあるのは、白人による黒人の生活に対する理解のなさである。これは悪意に基づいたものというより、単に平均的な白人が黒人との社交経験をほとんど持っていないことが一要因なのかもしれない。
更に、多くの白人は、自分は差別意識を持った人間ではないと思っており、人種差別主義者(racist)とのレッテルを張られることを恐れている。この恐怖は、様々な形によって表れる。例えば、すぐに「私には黒人の友達がいる(だから私はracistではない)」とか、「僕は(黒人文化の一部である)ラップ・ミュージックが好きだ(よって僕はracistではない)」とか言ったりしてすぐムキになる白人。このような発言は、どう考えても黒人が経験する人種差別を軽視し、自衛本能によって動かされたものとしか思えない。不運にも、人種差別を嫌う人々が、現実の人種差別の形と向き合おうとせず、自らが「人種差別主義者」と呼ばれないことばかりに気を取られてしまっている。白人社会がその白人的価値観を以て白人を人種差別主義者ではないと認識しても、実際の人種差別がなくなるわけではない。白人が人種差別主義者にならないことを目指すよりも、黒人がどのような差別を経験しているか理解し、そのような経験につながる要因を取り除いていくことが大事なのだ。
このように、アメリカ社会における人種差別や人種間の関係というものは、主流の白人社会の見方のみによって捉えきれるものではないのである。
*ちなみに、オスカー・グラント射殺事件の話は、『Fruitvale Station(原題)』によって映画化されている。グラント役のマイケル・B・ジョーダンやアカデミー助演女優賞受賞経験のあるオクタビア・スペンサーの素晴らしい演技もあり、私個人のお勧め映画です。
NOTE: This post has no companion English post. Why? Because the audience is meant to be Japanese readers who have never lived in the U.S. I plan on doing a few posts like this mostly because I promised an old friend a while back that I'll produce casual pieces of writing that provides some background knowledge on social issues that a young Japanese person/student who plans on spending some time in the U.S. may need but is unlikely to have. If you are wondering what this particular post about, it's about race in America. I tried to capture some ideas and/or the types of occurrences that usually don't make it into foreign news sources. I'm sure there will be an opportunity for me to write an English and/or bilingual post on this issue, so you aren't missing out. Probably.
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