Sunday, June 21, 2015

アメリカ社会を分断する銃保持の権利

先日、米・サウスカロライナ州チャールストンで白人至上主義者の若者が、黒人の奴隷解放運動とかかわりの深い黒人中心の教会で、同教会のクレメンタ・ピンクニー牧師を含む黒人9人を射殺した。この事件とアメリカの人種問題については、できればまた後日言及したいと思うが、今回は、アメリカ社会における銃文化について書こうと思う。

アメリカは、世界的に見ても異様な銃保持率及び銃への愛着を持った社会である。銃は、アメリカ社会のあらゆる側面に浸透し、子供用の玩具の銃も異様なものではない。だが、全てのアメリカ人が銃に執着している訳ではない。特に過去十数年に渡り増加を見せる銃による大量殺人事件を受け、民主党支持者を中心に銃規制を強く要望する者も少なくない。Pew Research Centerの2013年調査によれば、民主党支持者の79%が、銃規制強化により銃による大量殺人の死亡率を減少させられると考えている。彼らにとって、銃保持の権利を『自由』の基準としているようなアメリカ社会は病んでいるものなのだ。一方、保守派を中心とした共和党支持者は、銃保持の権利をアメリカ合衆国憲法によって与えられた基本的人権と考えており、どの様な形であれ、全ての銃規制はこの基本的人権を侵害し、アメリカという国家の根本的精神である『自由』を踏みにじる行為だと見る者が多い。




保守派が、一般市民による銃保持の権利を保障するとする憲法第二修正条項(通称:Second Amendment)の意味合いは、長い間、非常に曖昧なものであるとされてきた。同修正条項は、「民兵」が「自由国家の安全保障」に必要であるとの序文に始まり、人民が「銃を保持し武装する権利(right to keep and bear arms)」は侵害されるべきでない、としている。「民兵」への言及は、英国が植民地時代にアメリカ人の武器を取り上げ、民兵組織を解体しようとしたことによる中央政府への強い不信感から、建国の父たちが、新しく設置される連邦政府に各州の民兵組織解体をさせないことを念頭においたものだったとも言われており、銃保持と個人の『自由』を繋げるイデオロギーの原点はここにあるものと思われる。第二修正条項の解釈の主な争点は、序文が銃保持の権利を民兵活動に限定するものか否かという点にある。2008年の連邦最高裁判所による判決は、第二修正条項が民兵活動に限らず、個人による銃保持の権利を保護するという保守派の勝利とされたが、判事9人のうちリベラル派判事4人が異議を唱え、同修正条項の解釈の正しさについて議論が続いている。

このような意見の対立の中、アメリカ社会と銃との関係は、今のアメリカにおいて、毒々しさを含んだ話題と化している。(ちなみに、銃規制に関する姿勢は、特に政党支持や地方によっての対立が顕著化している。私は、長く北東部や大西洋岸中部といったよりリベラルな東海岸諸州に住んできたが、先月、中西部のオハイオ州に越した。私が住む州都のコロンバスは、州内でもリベラルな方だが、州全体は中道的で、保守派も少なくない。そんなこともあり、オハイオ州は銃規制が比較的緩い州で、公共の場において見えるように銃を保持するopen carryは許可証無しでも認められており、公共の場で銃を隠し持つconcealed carryも許可証を取得すれば可能である。ショッピングセンター等で、「ペットお断り」と同様のノリで「銃保持禁止」のサインが掲示されているのを見ると、東海岸の比較的厳しい規制に慣れた私は、未だにちょっとしたカルチャー・ショックを感じている。)



チャールストンの事件を受け、オバマ大統領は改めて銃規制強化を訴えたが、2012年に児童ら26人が死亡したサンディー・フックの銃乱射事件後さえも連邦議会の保守派によって規制強化を阻まれたことから、今回も悲観的な見方が強い。実際、銃保持の権利を強く支持する保守派は、銃犯罪を防止できるのは銃を持った"good guy"*だと主張しており、サンディー・フック事件発生直後、強い政治的影響力を持つ全米ライフル協会(NRA)が、学校に銃を持った警官又は警備員の配置さえ呼びかけた程である。チャールストンの教会銃撃事件については、9人の尊い命が失われたわずか数日後、同協会役員がオンライン上で、サウスカロライナ州議会議員でもあったピンクニー牧師が銃規制強化を支持していなければ、犠牲者の誰かが銃を持っていて、同牧師を除く8人は死なずにすんだかもしれないといった、場違いとしか言いようがない発言をしている。銃乱射事件が発生する度、一般市民がより容易に銃を持てるようにすべきだ、また、何でもかんでも銃による警備を拡大すべきだと声高に主張するNRAは、保守派の多くに英雄視される一方で、リベラル派の多くにとっては悪名高き存在と見られている。

だが、NRAら銃保持拡大を支持する保守派らが持つ"good guy with a gun"の理想は、根拠のないものだという見方を示唆する統計もある。偶然にも、教会銃撃事件のわずか半日前、ワシントンDCを拠点とする非営利団体・Violence Policy Centerが、銃による死亡事件等に関する統計を発表同センターの分析によれば、2012年中に発生した銃による死亡事件のうち、わずか259件が一般市民による正当防衛であったのに対し、およそ32倍の8342件が殺人であった。つまり、銃は正当防衛よりも殺人に使用されることが圧倒的に多いわけである。

そもそも、今のNRAが銃規制に猛反対することは、皮肉なことでもある。NRAは、歴史的にはライフル射撃といったスポーツ用の銃の使用や銃の安全な使用を重視する組織であり、1960年代には銃規制を支持していた。また、1970年代後半の協会内のクーデター以前は、ロビー活動などの政治活動を積極的にするような組織ではなかった。だが、1977年のクーデターにより、絶対的な銃保持の権利の確保を基本精神とする思想を推す新指導部が台頭。その後、政治的影響力を強め、今はカネと協会メンバーの人海戦術にものを言わせた活動で、ワシントンで最も恐れられたロビー団体ともなっている。特に、保守的な州選出の民主党議員や中道的な共和党議員は、州内の銃保持者という重要な有権者の支持を失う訳にはいかず、NRAの圧倒的影響力と資金力に怖気づき、信念的には支持する銃規制強化を避けるため、連邦議会による新たな銃規制がほぼ不可能な構造となっている。

銃保持の権利は、歴史的には白人のために認められてきたものだった。実際、公民権運動時代(1960年代)に制定された銃規制法は、黒人解放運動の急進的政治組織・ブラックパンサー党(つまり、白人が恐れるような「過激」思想を持った黒人たち)の銃保持を規制しようという動機から制定されたものである。奴隷解放後から公民権運動時代まで、黒人市民は一部の白人による組織的な暴力にさらされてきたが、これに対して一部の黒人市民(時代によっては黒人民兵組織)が自らのコミュニティーを守るために武装する(銃を持つ)と、白人の多くが恐怖心を抱いて黒人が銃を持ちにくくしたがった。

現代のアメリカにおいて銃保持の自由を叫ぶ者たちは、非常に限定的な『自由』の見方をしている。彼らは、銃保持の権利によってアメリカ社会の自由を守りたいと主張することが多いが、実際は、社会全体の自由というより、自分にとって都合の良い形の『自由』(つまり、キリスト教徒で異性愛者の白人男性が最高位を占める社会における自由)を守っていきたいのである。白人にとって銃というものは植民地時代に国家の自由を勝ち取った象徴的な道具であるかもしれないが、アメリカ社会は白人のみによって構成されているものではなく、銃というものを見る視点も変わってくるのではないだろうか。例えば、ネイティブ・アメリカンにとって、銃は白人による殺戮の武器であったであろうし、黒人にとっては、持てば白人に恐れられ、持たなければ自身やコミュニティーを守ることができないという人種的抑圧を象徴する武器とも言えるのではないだろうか。

いずれにしろ、アメリカ社会は、未だに銃との健全的な付き合い方を見出していないのだと思う。これを早期に見つけなければ、アメリカは銃による大量殺人が頻発する国であり続けるだろう。


*正義の味方というのは大袈裟だが、人助けをする善良な市民というような意味合いが一番適切かもしれない。