Saturday, November 22, 2014

私のフェミニズムの起源?

もう十何年前の話になるが、私は小学生の頃、運動会での応援団長をやりたいと思っていた。4年生くらいの時から、6年生になったらやってやろうと密かに考えていて、発声力も(小学生レベルでは)リーダーシップも自信があったが、一つだけ厄介なことがあった。それは、毎年必ず応援団長が男子で、副団長が女子だったこと。これが暗黙のルールであったのか、それとも学校側で正式に決められていたことだったのか、それとも単にそれまでやりたいと思った女子がいなかったというだけだったのかは知らないが、このパターンを不公平に感じ、余計にやってやりたいという気持ちもあったのかもしれない。だが、いずれにしろ、私の在学期間中、そのパターンが崩れることはなかった。というのも、私は応援団の応募が始まる前にリレー選手として選出されたため、結局応募できなかった(というか、しなかった)のである。

私の母は、50年代に水色のランドセル背負って小学校に通っていたような人間で、女の子だから「普通は」男の子がするようなことはできないというような考え方を教えはしなかった。結果、私は男だからこれはできてあれはできない、女だからあれはできてこれはできないという発想を持って育たなかった。むしろ、小さい頃からそんな考え方には納得がいかなかった。男であろうが女であろうが、同じ事をやる権利を持っているはず。つまり、私は小さい頃から、そうとは知らずにフェミニズムの信念を持ち合わせていたわけである。



以前にも触れた事だが、フェミニズムの(正しい)定義は極めて単純なものである。それは、「女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動」というもの。だが、「フェミニズム」という言葉は、常に誤解されたり捻じ曲げられたりされ、実際はフェミニズムに沿った考え方をしている人にも恐れられていることさえある。意味を理解していないために「フェミニズム」を汚い言葉であるかのように扱う者、男性差別主義(misandry)と誤解する者、悪意からフェミニズムの意味をわざと捻じ曲げる者。フェミニズムという言葉を耳にして退いてしまう人は大抵この内のどれかに当てはまる。

この中でも、性別を問わず全ての人が同等な社会的、政治的、経済的権利を有する社会を実現させるために、このような社会の実現を好もしく思いながらも「フェミニズム」という言葉を恐れている人の存在ほど、残念で逆効果的な事もないだろう。フェミニストであるという事は、女性にばかり優しくする事ではない。(むしろ、女性は弱者又は愚者であるから「大事にする」という考え方は、女性を男性と同等な存在ではないことを確立させるような行為とも言えよう。)フェミニストであるという事は、積極的に女性の権利について意見ばかりする事でもない。男嫌いという事でもない。(むしろ、フェミニズムは、性別を問わず、個人の人間性を尊重する思想であるため、男嫌いは逆に反フェミニスト的であるとも言えよう。)フェミニストになるには、女性である必要もない。フェミニストであるという事は、単に、男女が社会・経済・政治的に平等であるべきだと考えているというだけの事ある。誰が何と言おうが、それが「フェミニズム」の定義なのである。

ちなみに、この手の誤解は芸能界でもよく見られ、若い女性セレブの中ではフェミニストと名乗りを上げたがらない者、また、フェミニストではないと公言する者もいる。つい最近まで、人気歌手・テイラー・スウィフトも、「フェミニズム」や「フェミニスト」に対して否定的な見方をしていた。だが、彼女は、今年になって、「フェミニズム」とは「男嫌い」のことだ誤解していたと語り、大人になってその本来の意味を理解した今、自分もフェミニズムを支持していると発表。

逆に、欧米の芸能界では、「自分はフェミニストだ」と本来の意味を理解したうえで誇り高く公言したり、積極的にフェミニズムを支持する活動に取り組んだりしている者も多くいる。この点、人気歌手・ビヨンセ、ジェイムズ・ボンド役で有名なダニエル・クレイグ、ハリー・ポッター・シリーズで有名なダニエル・ラドクリフエマ・ワトソン、英国のハリー王子らが特に有名である。これらの活動の事実上のフェミニズムへの貢献については、疑問が持たれる事もないわけではない。これは、フェミニズムと一口に言っても、そもそも、どのような具体的政策内容や社会的態度が男女を「同等」と扱うものであるかについて完璧な合意がある訳ではないからであるが、より深い話は今回はしない事にしたい。

そこで、応援団長の話に戻るが、最近になって、二十代後半になった今でもこれにこだわり続けているのは何故か考え始めた。小6の私は、声も大きかったし(赤ん坊の時から「男の子みたいに元気に泣く」とか言われてたらしい)、リーダーシップも(演劇クラブの部長もやってたし、班長もよくやってたし)、体力も(当時はバレエに週三、四回通っていた)、絶対他のクラスメイトに負けなかったと思う。リレー選手は運動会の華。だから、それはそれでカッコ良くて、選ばれたらやらない訳にもいかなかった。でも、やっぱり私は応援団長として立候補すべきだった。学校側が、団長は男と決めているのか、試すべきだった。決めていたら、それでも一候補としての資格を勝ち取るべきだった。女子でも、応援団長をやろうとしてもいい、やれるという事を示すべきたった。こんな小さい事でも、意識的であろうが無意識であろうが、子供の頃から「男子は主の役割、女子は副の役割」という印象を植え付ける構造は、戦っておくべきだった。



*This post has no companion English post because the audience is meant to be Japanese readers who have likely had very little exposure to debates surrounding feminism (which is the topic of the post). It's intended as, at the risk of sounding redundant, a very basic primer to the correct (dictionary) definition of feminism and societal attitudes surrounding the word "feminism." As an English reader, you definitely have better resources on this topic than this post. If you need suggestions, check out any/all of the following: Slate's The XX Factor, Ms. Magazine blog, HuffPost Women, Jessica Valenti's column for The Guardian, Jezebel, and xoJane.

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