日本のメディアでも、人種差別等に反対する全米各地における連日の抗議デモの模様が報じられているようだが、アメリカの刑事司法制度や社会全般における構造的な人種差別を理解せずに、これらのデモの意味を理解することはできない気がする。以前に、アメリカの黒人と白人との間には「人種」感覚のズレがあると書いたが、今回は、ミズーリ州ファーガソンにおける黒人少年射殺事件とその後の世論、オハイオ州クリーブランドでエアガンを持った12歳の黒人少年が白人警官によって射殺された事件、ニューヨーク市で白人警官が黒人男性を窒息死させた事件を通じて、この「ズレ」とアメリカの刑事司法制度及びアメリカ社会との関係について少し話したい。
ファーガソンにおけるマイケル・ブラウン射殺事件とその後の成り行きには複雑な要素が複数絡み合っているが、黒人と白人との間では、この事件の見方においてズレが生じている。この人種間でのズレは、大っぴらな人種差別によるものというより、逆に、人種差別をしてはいけない、そして、いわゆるcolor-blindness*が社会的に正しい態度だと考える白人が多いために生じているものともいえる気がする。Color blindな者は、状況を把握するにあたり、人種をファクターとして全く捉えないようにしている。よって、ファーガソンの事件については、マイケル・ブラウンを射殺した警官が、ブラウンは強盗犯である可能性があると感じていたこと、また、この警官がブラウンに攻撃されたと証言し、顔に打撲を記録する写真が存在することを踏まえ、人種がどうであれ、大陪審による不起訴処分は適切か、適切とは言えないとしても仕方ないものと考える。(しかも、ブラウンが実際に強盗犯人であったことは、当事店の監視カメラの映像から確認されている。)本件における大陪審プロセスの問題点は別としても、米国の黒人としての人生体験がない人間がこのような見方をするのは自然なのかもしれない。そして、これこそ、人種差別をしないという人間的に正しい意識から生まれたcolor-blindnessという考え方の最大の(また、唯一かもしれない)弱点を示すものなのである。
Color-blindnessは、人種を意識しなければ、人種差別意識はなくなるという前提のもとに成り立っている。確かに、日常における他人との付き合いにおいて、このアプローチは悪くなさそうである。だが、「私は今○○人種の人と話をしている」と意識していなくても、人間というものは無意識に人種的なステレオタイプを抱くことも少なからずある。このような時にも自分はcolor blindであり、どのような小さな偏見も有することはないと皆が考えてしまっていれば、実在する差別や偏見も特定しにくくなる。それは、自らの考えや行動だけについてのみではなく、他人の言動を評価するにあたっても、表面的には差別的でない差別行為を認識できず、見逃すこととなってしまう。つまり、人種差別を嫌うまともな精神を持つ人々が人種を意識しないという事は、同時に、実存する人種差別行為をも意識できなくなり、それを撲滅することなどできなくなってしまうという事なのである。
更に、color-blindnessという考え方には、どうしても「中性的」な基準点が必要となってくる。そして、そもそも白人が人種差別への対応として考え付いたものであるため、その基準点は、アメリカ社会で生活をしてきた白人の経験によって測られる。つまり、アメリカにおいて白人と黒人が同様な社会生活を経験していなければ、結局、黒人は「他」の存在のままなのである。Color-blindnessの視点をもって、冒頭で触れた白人警官が関与した黒人男性・少年死亡事件を考えた場合、平均的なアメリカ人の黒人が、警察にどのように扱われ、警察に対してどのような感情を抱いているかという考慮がなされないまま、各警官による行動の正当性が評価されることとなる。また、白人警官が、知らずに抱いてしまっている差別意識により、対峙した黒人男性が及ぼす脅威を過大評価した可能性を追及することもないかもしれない。
それでは、アメリカで平均的な生活を送る黒人(特に少年や男性)にとって、警察とははたしてどのような存在であるのか。以前にも言った通り、黒人は警察によってあらぬ疑いをかけられたり、一般市民による根拠の薄い通報により警察沙汰に巻き込まれたりしてしまうことがよくある。ニューヨーク市警による「ストップ・アンド・フリスク(stop and frisk)」という悪名高い慣行が、連邦地方裁判所から違憲判決を受けたことは広く話題になったが、警察による人種差別的な行動というものは、不幸なことに、決して珍しいものではない。「そんな主張には証拠がない」という人間がよくいるものだが、アメリカで生活する黒人なら、自分や知り合いが警察に受けた差別行為を簡単に挙げられる者も少なくない。これに対し、一部の白人(特に若者)の間でも、逆に、自分が白人であったために警察に大目に見てもらった体験をシェアするものが出てきた。エリック・ガーナーが白人警官によって首を絞められ死亡した事件で、その警官の不起訴処分が発表された後、ツィッターで#CrimingWhileWhiteというハッシュタッグがトレンドした。これは、以前にも説明した「~ing while black」(何も悪いことをしていないのに、黒人であるというだけで一般的な行為を犯罪行為とみなされること)を真似た表現で、直訳すると、「白人でいながら犯罪する」というところだろうか。このハッシュタッグを使い、違法行為をしているところを警察に見つかったにも関わらず、様々な理由で大目に見てもらった体験をシェアしている白人は、白人が警察に優遇されていることを疑う人間の主張を否定しようとしているのだろう。だが、#CrimingWhileWhiteについては、利点がありながらも、飽くまで白人中心の視点であるとの批判もなされ、黒人ユーザーたちが、#AliveWhileBlack(「黒人でいながら生きていること」)というハッシュタッグを使って自分が受けた差別行為をシェアし始めた。
これら二つのハッシュタッグを含んだツィートを読めば、アメリカの白人と黒人が、警察や刑事司法システムに対して異なる感覚を持っている事実が浮き彫りとなる。黒人の民間人が警官(特に白人警官)と対面した時、同様の立場にある白人の民間人よりも身構えた反応を取ることは当然のようにも思えてくる。白人や白人主導社会で育ってきた者は、このような事実を知り、初めて、ファーガソンの抗議デモに表れた黒人コミュニティの怒りと絶望を理解し始めることができるのかもしれない。
だが、黒人にとって、警察によるこのような人種による扱いの差というものは、幼少の頃から、少しずつ考えさせられていくものである。黒人の親、特に、黒人の息子を持つ親は、必ずとも言えるほど、警察と遭遇した場合についての話を子供とするようにしている。どんなに無礼な扱いを受けても、礼儀正しく敬意をもって対応すること。自分の手が警官に見えるように気を遣うこと。免許証を取り出す際は、必ず先に警官の許可をもらうこと。何も悪いことをしていないのに取り押さえられても抵抗しないこと。警官が嘘をついていても、自分が信じてもらえる可能性は基本的にないこと。白人の友達と一緒にいて、同じことをしていても、自分だけ違う扱いを受けることを前提としておくこと。このような事を、十代前半ぐらいの時から教えられ始める黒人少年が数多くいるのである。これに対して、人種差別に強く反対するリベラル派の親も含め、白人の親は、子供に人種の話をしたがらない傾向が強い。このようにして、白人と黒人との間の「ズレ」が拡大していくわけである。
「白人警官が黒人の男性又は少年を死亡させた」という事件が発生すると、主導的な白人社会は、まず、「事実関係の確認」に走る。つまり、「まず様子を見てみよう」という態度を取る。確かに、警官側と死亡者側のどちらに正当性があったか、可能性を五分五分と見た場合、これは当然の話と言えるかもしれない。だが、このような態度は、あまりに「個」の事件を重視することにより、構造的な人種的偏見について考えることを困難にしてしまう。更に、白人社会で育った者の多くは、警察は何等かの理由がない限り、つまり、相手が不審な行動もしくは不審と思われても仕方ない行動を取らない限り、基本的に悪い行動は取らないものだと認識していると思う。このため、死亡した民間人の行動などに注目が集まる。この際、その人に犯罪歴などがあれば、実際の行動よりも重視されてしまうことも少なくない。つまり、過去に「悪いこと」をしたのだから、警察に射殺されるなどして命を落としたのも、今回も「悪いこと」をしたのに決まっている、という考え方になる。また、少しでも「悪いこと」をしていれば、警察側の正当性が前提とされ、その事態が発生したこと自体が人種的偏見のもとであったかは精査されない。
ファーガソンの事件で射殺されたマイケル・ブラウンは、強盗犯人と思われていたうえ(しかも実際そうであったことが後に判明している)、朝からマリファナを吸っていたことが報じられている。これは、つまり、彼は不良であったという主張である。このため、彼を射殺したダレン・ウィルソンが、彼のことを「鬼(demon)」や「ハルク・ホーガン」と言った超人的(つまり、非人間的)な存在に例えた際も、その証言を鵜呑みにして、ああ、やっぱり脅威だったのではないかと頷いた者も少なくなかった。クリーブランドで射殺された12歳のタミール・ライスは、本物と区別する印がついていない玩具の銃を公園にいる人に向けて遊んでいた。黒人の少年が銃らしきものを振り回しているのは、(白人)社会では脅威だと捉えられる。そして、ニューヨークで窒息死させられたエリック・ガーナーは、脱税タバコの販売という違法行為を発見されたうえ、逮捕に抵抗するような気配も見せている。
主導的な白人社会において、警察の手により命を落とした黒人の民間人は、まず、「正当な被害者」の地位を勝ち取らなくてはならないが、ブラウン、ライス、ガーナーの三名は、いずれも「立派な市民」といえる存在ではない。だが、この内でもエリック・ガーナーは、脱税タバコの販売という些細な犯罪容疑をかけられていたに過ぎず、目撃者が撮影した携帯カメラの映像から、どう見ても警察や治安に対して脅威でなかったことは明らかとなっている。このため、ガーナーについては、大陪審が警官を不起訴処分にしたことに対して、被害者側への同情的な見方も多いが、これは、白人主導社会においても、「正当な被害者」だと認識されたからだと言える。裏を返せば、低レベルの犯罪容疑に過ぎなかったことと、全く脅威でないことを証明するビデオ映像の存在があって、ようやく白人社会の同情心をも得られたこととなる。(それでもガーナーを窒息死させた警官は不起訴処分となった訳だが。)
だが、単に「悪いこと」をしたからと言って、警官によって殺されていいものであろうか。殺人者でさえ、即決には処刑されないことは保障されており、警察だって、基本的に自分や民間人に危険が及びそうであると判断しない限り、人に致命傷を負わせてはいけない。黒人の若い男性や少年は、ちょっとした事でもより容易に「脅威」とみなされることが多いためか、白人よりも警察に射殺される可能性が21倍も高いという統計もある。黒人の方が白人よりも犯罪を犯す傾向があるのではと主張する連中もいるが、これらの主張は、刑事司法制度における構造的な人種的偏見を十分に考慮していない可能性が高い気がする。しかも、黒人は、白人よりも犯罪被害者である率が高いにも関わらず、人種ゆえに「犯罪者」と見られてしまうことが多い。これは、何等かの人種的偏見が絡んでいるとしか思えない気がする。
このように、黒人コミュニティは、繰り返し警察から不当な扱いを受けてきており、長年にわたり、多くの黒人の若者が、警察の手により命を落としてきている。また、黒人の若者は、警察のみにではなく、その他の刑事司法制度、教育制度をはじめとした社会全般からも不当な扱いを受け続けている。このため、政府の調査によって公開される「事実」というものを完全に信頼できるものとは思えないのかもしれない。それどころか、ほとんどの場合、「事実」など明らかにならず、警察側は何の責任も取らずに終わることが大半だと認識している者も少なくないのかもしれない。例えば、ファーガソンとニューヨークの各事件のいずれの大陪審も、警官を不起訴処分にすることを決定した。不起訴処分というのは、被告人を裁いたうえで無罪と決定したこととは天と地の違いであり、その裁く機会さえ否定する決定である。このような背景の中で、似たような経験を繰り返してきた黒人コミュニティの怒りのレベルが限界に達してきているのも十分理解できる。
ここ数週間における一連の抗議デモには、黒人のみでなく、多くの白人やその他の人種の人も参加している。更に、ソーシャル・メディアでも、多くの人々が意見交換をしているようである。これが果たして状況の改善に繋がっていくのかは分からないが、その方向に進んでいくことを期待することとしよう。
*この単語は、本来「色盲」という意味を持つが、社会的な設定で使用された場合、「(肌の)色は見えない」、つまり、「人種を意識しない」という意味を持つ。
NOTE: This post has no companion post in English because it is intended to present, to a Japanese audience unfamiliar with race in America, some reported facts and ideas on structural racism in the U.S. through the lens of the recent police killings of Michael Brown, Tamir Rice, and Eric Garner. I haven't really presented any "fresh" ideas on the topic, and chances are, you have encountered very similar opinions and summaries already. I do, however, recommend some of the links I've included in the post. And yes, the ones I recommend are in English.